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第1章:目指していたのは歯科医?意外すぎる学生時代からイラストレーターになるまで〜メンターからの手紙 ヒロ杉山氏〜

ポイント
  1. おとなしい子供時代
  2. デザインの道へ
  3. 人生の転機。湯村輝彦さんとの出会い

目次 [非表示]

ヒロ杉山氏 プロフィール

1962年東京生まれ。
86年、TOYO ART SCHOOL卒業後、湯村輝彦に師事し、その後独立。
97年にアーティストユニット「Enlightenment(エンライトメント)」(http://elm-art.com/)を設立し、世界中のアートシーンで名を馳せる。
国内外の展覧会でファインアート作品を発表する一方、グラフィックデザイン、VJ、映像制作、ZINE、アートブックの出版、展覧会のキューレーションなど幅広く活躍。
また、京都造形大学にて教鞭を執り、若手クリエイターの育成にも力を注いでいる

おとなしい子供時代

僕がどんな子供だったかというと、おとなしくて、ひとりでずっと遊んでるようなタイプ。
母親が「幼稚園は意味がない」と、僕を幼稚園には通わせなかったので、本当にずっと家で一人で遊んでいました。
そんなだから、いきなり小学校という集団生活のなかに入ることになって、人見知りな子供でもありました。

その頃の大きな出来事といえば、交通事故に遭ったこと。
母親は「覚悟してください」と医者から言われるほどの大きな事故だったんですが、幸い一命をとりとめました。

首から下は全身ギプスで、半年くらい入院したんですが、子供だからそんなに深刻にもならないし、暇だからとずっとひたすらプラモデルを作り続けて…。
そのときに、ものを作るって面白いなと初めて思ったかな。

絵を描くということを初めて強く意識したのは20歳くらいの頃です。遅いでしょう。

僕は父親が歯科医で、開業医だったから長男の僕が跡を継ぐのだと子供の頃から思っていました。
なので、高校も理系クラスで、歯学部を目指すために勉強していたんですが、僕が仲良かった友達というのは芸術系を目指す子が多かったんです。
その子たちは、高校卒業後は芸術学部へ進学。僕は歯学部を受けたけど落ちてしまって、2年浪人しました。

予備校へ通っていたときも、芸術系へ進んだ友達と遊んでました。
彼らは、すごい楽しそうなの。デザインやったり絵描いたり。
それまで僕はまったくそういう世界を知らなかったから「こんなのがあるんだ!」と。

当時は、グラフィックデザイナーとかイラストレーターとか、そういう職業も知らなかったですから。
そうすると、予備校もだんだん行かなくなっちゃうんですよ。気持ちが、もう歯医者になりたくなくなっちゃって。自分も芸術系に行きたいと思ってしまったんです。

それで、20歳ぐらいから絵を描き始めたんですよ。浪人生活の中、勉強しなきゃいけないのに、夜な夜なイラストっぽいものを描き始めて。
そのときが、ほんとに真剣に絵を描き始めたときかなぁ。
だから、高校で芸術系の友人たちに会わなければ、歯医者になってたかもしれないですね。

デザインの道へ

そこから、路線変更を図るわけですが、親に言えないわけですよ。
親も自分も、歯科医になって僕が跡を継ぐもんだと思って予備校にも行っているわけだから、いまさら進む道を変えたいなんて、なんて言っていいのかわからない。

毎朝、家は出るんだけど、予備校には行かずに喫茶店で時間を潰すという悶々とした日々でした。
そんなとき、転機となる出来事が起こりました。

その日も予備校をサボってフラフラしてたら、道端で親戚のお姉さんにばったり会って「何してるの!」と言われてしまったんです。
モジモジしてる僕を見て、彼女は「ちょっとお茶でも」と、話す時間を作ってくれた。僕はそこで、思っていることを全部話したんですよね。

そしたら、その日のうちにお姉さんがうちの母に電話して「ヒロくんは今こういう心境みたいよ」って全部喋ってくれたんです。
それを今度は、母が父にすぐ伝えた。
そして、その日家に帰ったら、父が一言「好きなことやればいいじゃん」って。あっさりと(笑)。
そうなんだ!好きなことやっていいんだ!」と思って、そこから転換、予備校を中退し、デザインへの道を進み始めたんです。

歯科医になること自体は嫌ではなかったけど、今から思えば「暗黙の了解」だったかもしれない。
母はならせたがっていたけど、父に「跡を継げ」と明確に言われたことはなかったかもしれないから。
お姉さんには、大感謝ですね。

人生の転機。湯村輝彦さんとの出会い

そこから、デザインの世界へ路線変更しました。
僕は、その時点ですでに20歳で、それまで絵を描くことをしてこなかったから、時間稼ぎしたかったんです。
だから、専門学校で4年制の学校があったので、そこに進みました。

同級生は18、19歳で、小さい頃から絵を描いてるような子ばかり。その子たちと同じペースでやってたら間に合わない!と思って、友達も作らないぞってくらいの気合で一生懸命課題をやってました。

でも、そうこうするうちに仲のいい友達もできてくるわけです。
そのときの友達が今でも親友なんですけど、彼らもこの業界で名前が売れて、有名になるんです。すごいですよね。

親戚のお姉さんがきっかけで、デザインの道に進めたことが僕のひとつの転機ですが、もう一つの最大の転機というのが、この専門学校時代に湯村輝彦さんと出会ったことです。
(湯村輝彦:イラストレーター、デザイナー、漫画家、音楽評論家。ヘタうまデザインとイラストレーションを駆使して独自の道を歩む日本グラフィック界のベテラン。)

湯村さんのファンだった友達が、まだ学生のうちに湯村さんの事務所に就職していました。
その彼から「湯村さんの事務所が引っ越すから、手伝いに来て」と言われて行ったことがきっかけで湯村さんと知り合いました。

その時、湯村さんの事務所はアシスタントも探していて、僕が引越し作業を真面目にやってるのを見てアシスタントとして雇ってもらったんですが、そのまま社員になって7年間お世話になることになるんです。

湯村さんは当時すでにすごい人だったし、学校で習ってるようなデザイン論とか常識とかが、全部ひっくり返されるような人だった。そこにいけたから今の僕がいる、って言えるくらいの人。

アシスタントになった当時は、僕はまだ専門学校の2年生だしなんにもできない。できることといえばお茶入れくらいでした。

湯村さんはけっこうお茶にうるさかったから、お客さん来たときに、とにかく一番おいしいお茶を入れようと思って、お茶の入れ方を研究して(笑)。

いつもおいしいお茶出そうと思って頑張って、3ヶ月くらい経ったとき、お客さんが4人くらいいらして、帰ったあとに湯村さんが一言「杉山、今日のお茶美味しかったぞ」って。もう、涙が出ました。

偉大な湯村さんのもとで、とにかく自分がいまできること見つけなきゃと思って必死でした。だから、車の運転手もしたし、当時幼かった息子さんのゲームの相手もしたし。なんでもやってましたよ。

そして、7年目くらいのときに、僕はイラストレーションの公募でグランプリを取るんです。それきっかけに独立することにしました。
湯村さんは「おう、やれやれ」って応援してくれて、29歳でフリーランスになりました。

湯村さんのもとで働いた7年の間に、たくさんのことを学ぶわけですが、そこで学んだこととして湯村さんの「姿勢」があります。
湯村さんは、すごい大きな額でも、小さな額でも、その仕事のギャランティーにかかわらず全力で描くことを心から楽しんでいるんですよね。あれだけの大御所なのに、300万の仕事も、3万の仕事も、テンションが同じなんです。
どんな仕事でも楽しんでモチベーション高く取り組む姿勢、それはもう、いまでも自分もそうしたいなって思うことですね。

(続く)

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著者プロフィール

ikekayo(池田佳世子)

ikekayo(池田佳世子)

関西を拠点に活動するライター。 その人のもつ無形の価値に輪郭を描く仕事をしています。