第1章:ボブ・ディランが好きな少年が、楽器メーカーで「マーケティング」を知るまで〜メンターからの手紙 伊藤富雄氏〜

ポイント
  1. 音楽漬けの学生時代。アイドルはディラン
  2. 音楽漬けの生活から、楽器メーカーへ。ところが…
  3. 大場さんのこと
伊藤富雄氏 プロフィール
1958年、京都市生まれ、神戸育ち。ギターをこよなく愛する元アマチュアミュージシャン。さまざまな職種を経験したのち、インターネット黎明期にeコマースからネットビジネスに参入し、2010年、日本ではじめてのコワーキングスペース「カフーツ」を神戸に創設。コワーキングやリモートワークの可能性を追求し、その価値を発信する活動の傍ら、フリーランス支援や起業家育成にも力を注いでいる。

音楽漬けの学生時代。アイドルはディラン

生まれは京都ですが、父親の転勤で幼稚園くらいから今まで、ずっと神戸に住んでいます。
僕の中学、高校時代は1970年代で、その頃の子供がすることって野球かフォークソングだったんですよ。僕は野球もしてたけど、フォークソングが大好きで。ものすごく古いフォークソングですよ、岡林信康とかね。吉田拓郎が出てくる少し前、若者がギター持って歌い始めた頃で、僕も感化されて中学2年くらいからギター持ち出すんです。
そこからもう、社会人になるまで音楽漬けでしたね。

高校のときはフォークソング部でした。そしてロックにもかぶれてね。友達とバンド組んで文化祭で「声でかいからヴォーカルやれ」と言われて、DEEP PURPLEとかデレク&ドミノスとかCREAMとか、やってたんですよ。渋いでしょう。

ロックバンドでヴォーカルやりながらも、僕はやっぱりフォークソングが好きだった。ギターって、同じGでもいろんな押さえ方あるなぁとか、ジャカジャカ弾くだけじゃない、インストゥルメンタルで弾く世界もあるんやなぁというのを知ったのも高校生の頃。それでもうギターにハマってしまって。スリーフィンガーピッキングでインストゥルメンタル弾いたり、バンドとかけもちみたいなことしてましたね。

当時は今みたいに情報はあまりなかったけど、本集めたり、レコードを耳コピしたりして、自分なりにいろいろ試行錯誤しながらやってました。だから、その頃に苦労して耳コピで覚えた曲は今でも勝手に指が動きますね。

大学に入ってからは、エレキギターも弾き初めて、国産のストラトのコピー買って、バンド始めたんです。
僕は、ボブ・ディランが一番好きなんです。僕が好きで聞いてた日本のフォークシンガーがみんなボブ・ディラン、ボブ・ディラン言うてて、どんな人やろう?と思ってレコード買ってきて聴いたときは、衝撃でした。何言ってるかわからん、お経みたいな歌で、なんやこれ!?と思いましたね(笑)。

でも、歌詞を読むと好いた惚れたとかじゃなく、めっちゃ哲学的なこと語ってる。「あ、そうか、こういう人らはこういう音楽にのっけてるけども、言うてることはすごい詩的な世界なんや」と、また発見がある。だからいまでもディランは僕の最大のアイドルなんです。

ボブ・ディランは、最初アコースティックギターでやってたけど、もともとロックの人やから、途中からエレキギターもってロックやりだしたら、それまでのフォーク好きのファンから「裏切り者!」とものすごいブーイングされた。でも彼はそれにもぜんぜん負けないで、「Play Loud!(バカでかい音でやろうぜ!)」って「Like a Rolling Stone」やるんですよ、めっちゃかっこええんですよ!

ボブ・ディランはアルバムごとにジャケット写真の人相が毎回違うんです。でも、人って変わっていくものじゃないですか。歌い方も声の使い方も、もちろん生活も、所帯持ったりいろいろあるじゃないですか。そこらへんを、スターの偶像的なものじゃなくて、生身で自分をさらけ出してやってるって一番かっこええなと思うんです。

そんなディランのバックバンドであるThe Bandにもハマって。ディランやThe Bandのコピーをやってたら仲間ができて、バンドやって。大学時代は本当に音楽が生活を占めてましたね。

音楽漬けの生活から、楽器メーカーへ。ところが…

バンドやって、ちょこちょこライブハウスで演奏したりイベント出たり、ちょこっとテレビにも出たりしてたんです。当時一緒にやってたヴォーカルの男が、ほんまに歌がうまくてね。生涯聞いた中で、プロもアマチュアも含めてあんなにうまいヴォーカル聞いたことないですね。

そして大学卒業するんですけど、僕は音楽でプロになる道もあったんですけど、就職する道を選びました。就職先は、楽器メーカーしか考えてなかった。そこで、T社という楽器メーカーに就職して、そこの大阪営業所で営業マンになったんです。自社で作った楽器を、僕は主にギターでしたけど、各地の楽器店に卸す仕事ですね。それが、1981年のことです。

就職してもまだバンドはやってたんですよ。でも、どういう流れかはもう忘れてしまったけど、なんとなくライブもしなくなって、ヴォーカルだった男ともぷっつり音信が途絶えてしまって。バンドは自然消滅状態になりました。当時、出してもらってたライブハウスが主催したコンサートのライブLPは残ってますけど。

でも、楽器メーカーだから、会社が新しい楽器出すときなんかにプロモーションでライブやったりしました。そのときには、僕もギター演奏してましたね。

ところが、T社が入社5年目くらいに倒産するんです。今で言う民事再生ですね。当時は「和議」って言うてましたけど。
もともと、浜松の小さな会社でしたけど、当時にしては斬新なことをめちゃくちゃやってた会社だったんです。たとえば、80年代にすでに、ギターを作るのにコンピューターで採寸してデータとって、完全なコピーを作るという技術を持っていた。すごい革新的で、野心的な会社だったんですよ。

そんな会社だから、新しいことを手広くやりすぎたんでしょうね。投資して、結果が出るまでもたなかったのかもしれない。

今でも覚えてますけど、ある日普通に出社したら、所長が新聞読みながら「あれ?!」と声を上げた。自分の会社が「和議申請」と新聞に出ている。最初は営業所長も知らなかったんですよ。

でも、新聞に出るというのは大変なことで、その日の朝からものすごい電話が鳴りました。和議申請なんてなれば、会社の信用がそこでいったんなくなるわけですよね。メーカーは、作ったものの保証をしなければいけないから、楽器でも1年保証とかなってるわけです。ところが、和議申請した会社なんてどうなるかわからない。だからその瞬間から店頭に並んでるうちの商品が全部保証のないものになる。保証のないもの売るわけにはいかないから、取引先の楽器店から引き上げに来いという電話が鳴りまくったんです。

みんな必死で電話取って、なんとか店頭に置いてもらえるようにお願いするんですけど、やはり難しくて、仕方ないので引き上げに行くわけですよ。
日本中の営業所で大騒ぎやったんです。でも僕は、1本も引き上げてないんです。当時、僕の担当エリアは京都と滋賀と山口だったんですが、誰も電話かけてこなかったんですよ。

新聞に載った日から3日目くらいに1本だけかかってきた。「うわー、きたー!」と思って出たら京都の楽器店さんで「伊藤くん、聞いたで。大変やな。せやけど、めげたらあかんで。がんばりや。それだけ言うとこ思うて。ほなね」って。それだけ。

大場さんのこと

でも、実はそれには理由があるんです。
当時、本社に大場さんという常務がいて、この人がごっつい頭のいい人で。一見、普通の田舎のおっちゃんなんですけど、この常務に教えられたことが大きかった。

新人の頃、研修で大場さんはこう言ったんです。「君たちはメーカーの営業マンで職を得たでしょ、でも、御用聞きじゃないからね」と。は?と思って。営業マンは、楽器店回って注文取ってくることが仕事なんですけど、それだけじゃないよと。

大場さんは、「営業マンは自社の商品を売り込むだけじゃない、お前たちはコンサルタントや」って言うんです。で、僕ら営業マンに市場調査をさせたんです。店頭に並んでるギターのうち、どのメーカーのが何本あるかを毎月1回調べろと。毎月毎月、A社何本、B社何本、そしてT社が何本って。それをノートに書いて、集めてデータ化するということを、僕ら御用聞きやと思っていた営業マンにやらせるんです。これがのちのち、ものすごい役に立つんです。

そして大場さんはさらに「店頭に並んでるギターのうち自社製品のシェアは33%を絶対に超えるな」ということを、厳に言ってました。普通は、メーカーからしたら自社の製品が沢山並んでたら沢山売れると思うから、売り場を独占したいと思うでしょ。違うんです、絶対33%を超えるなと大場さんは言うんですね。

ところが、僕が調子乗ってT社ファンのお店にどんどん卸してたら、ある日を境に目に見えて客が来なくなるんです。当然店の売上は落ちた。「なんで?!」と思って数えたら、33%超えて、40%近くなってたんですよね。「あ、常務が言うてたのはこれか」と。

それまで、調査はしてたけど意味はわかってなかったんです。なんでお客さんが来なくなったかというと、お客さんが自分で選択できなくなるからなんですよね。売り場にT社のギターが4割以上並んでたら、お客さんの目には「この店にはT社のギターしかない」と映るんです。T社ファンはお店には来るけど、ギターなんてそう何度も買うもんじゃないから売上は上がらないですよね。

なぜ僕らがコンサルなのかというと、自社製品の店頭占有率をコントロールすることで、そのお店に来る客層を幅広く維持できるわけです。そうしないと、その店の売上が落ちる。その原因は僕ら、メーカー側にあるわけです。だから、売り場には33%絶対超えないようにというルールだったんですね。身をもってわかった。そこで売り場からT社のギター引っ込めてもらって、30%以下にしたんですけど、挽回するのに半年以上かかった。その間、ずっと売れずに(苦笑)。

そんなことを、浜松のちっちゃい会社で教えてくれたのは大場さんです。メーカーってBtoBで商売するけど、BtoCでの商売のことも考えとかなあかんということですよね。
メーカーのやってることって、基本的にはものを作って店に卸すということなんですけど、売れるものをつくってあげないといけない。もう一つ、売れる体制にしてあげることも、メーカーの役目なんです。
T社ってその当時は、業界のなかでも特異な存在だったんですけど、そういう組織文化もあるし、お店側から見てもちゃんとしてたと思いますよ。

(続く)

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著者プロフィール

ikekayo(池田佳世子)

ikekayo(池田佳世子)

関西を拠点に活動するライター。 その人のもつ無形の価値に輪郭を描く仕事をしています。