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第1章:「中川悠」を構成する要素が凝縮された少年時代、学生時代、そして青年期。 「誰かを助ける」という道に進むまで〜メンターからの手紙 中川悠氏〜

ポイント
  1. 達観した子供時代
  2. 演劇に人生をかけた大学時代、そして社会人に
  3. 雑誌編集者とギャラリーオーナー

目次 [非表示]


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プロフィール
中川 悠(なかがわ はるか)
大阪を拠点に活動するNPO法人チュラキューブ/株式会社GIVE&GIFT代表。イシューキュレーター。大阪市内にて、就労継続支援B型事業所GIVE & GIFTを運営。
ほかにもコミュニティ再生、伝統工芸支援など、福祉を基盤にしながらもジャンルにとらわれない多くのビジネスモデルを提供している。社会課題を少しでもプラスに変えられるアイデアをカタチにし続け、多くのメディアでも注目されている関西のソーシャルビジネス業界を牽引する一人。

達観した子供時代

子供時代というのは、けっこう僕の人格形成に影響があると思います。
祖母が嫁ぎ先で苦労した人で、その祖母に育てられた母もがちょっと特異な育ち方をしていたので、僕はその2人に板挟みになって、子供ながらにそれぞれにすごく気を使い、空気を読む子でした。
今となっては笑い話なこともいっぱいあるんですけど、いろいろ苦労もあったので、早くから達観していた子供だったと思います。
でも、今のような仕事をしようなんてことは全然考えていなくて、とくにやりたいこともなかった。
ただ、僕は小学校からクリスチャン系の学校に通っていたので、そこでのキリスト教の学び、正義感だとか恵まれない方々に手を差し伸べましょうというような意識は、その頃から根付いたのかもしれませんね。

高校からは山梨県の高校に入学し、寮生活が始まりました。
そこで初めて親離れができて、芽生えていた自我が確固たるものになったと思います。
男子寮だったんですけどほんとに楽しくて。勉強はしなかったですけど(笑)、友達も多かったし、スリッパをどこまで遠くに飛ばせるかとか、夜中に寮を脱出してみるとか(笑)、高校生らしいアホな遊びをいっぱいしてましたよ。

卒業後は関西に戻ってきて近畿大学に進学しました。
でも、その時は勉強が嫌いになってしまっていたから、とくに進みたい学部もなくて。だからとりあえず、経済学部か経営学部で4年間広くいろいろ学ぼうと思い、当時の自分ががんばって入れたのが近大の経営学部だったんです。

演劇に人生をかけた大学時代、そして社会人に

大学に入ってから演劇に出会って、そこで人生が拓けた感じがあります。
劇団に入って、集団でなにかをするとか、身体表現をするということがすごく楽しかった。
途中、学生劇団をやめて社会人劇団に入ってからは、いろんな年代のいろんなキャラクターの先輩たちがいて、週に2,3回はお芝居を見に行き、いろんなお付き合いをさせてもらってました。
タレント事務所にも入って小さな仕事をこなしたりして、4年間くらいの短い期間でしたけど、あの頃はほんとに演劇が人生のすべてという感じで。
ただ、いろいろ動き回っていたからこそ、自分には役者としての市場価値はなさそうだと感じて、社会人になったときにその道はすっぱりやめちゃいました。

でも、今から思えば劇団というのは経営に似てるんですよ。
どうやったら集客ができるかとか、どういう切り口で打ち出せば人気がでるかとか、後に僕がやることになる雑誌の編集に近い感じもある。
集客ができなければ利益はない。だから、どの劇場でやるかとか、どんなチラシにするかとか、客観的に自分たちがどう見えているかとかをずっと考えていたので、それは今にもつながること。
当時に経営の基礎訓練ができていたかもしれないですよね。

その後、劇団もやめてさあどうしましょうと、4年生のときに就職活動をして、とある一般企業に営業として入社しました。
でも、そこは3ヶ月半でやめちゃったんです。というのも、その会社のサービスや商品を自分が「売りたい」と思えなかったんですよね。
でも、僕はコミュニケーションは得意だから最初の研修なんかもそつなくこなせるわけです。なのにいざ仕事が始まると、自分が「いらない」と思う気持ちがゆずれなくて全然売ることができない。
もっと自分は器用でいろんな事ができる人間だと思っていたけど、ぜんぜんそうじゃないと気づきましたね。
売る能力がないことにも、不器用で世渡りが下手な自分の性格にも落胆しました。

雑誌編集者とギャラリーオーナー

そして次に飛び込んだのが雑誌編集の世界です。
最初はアルバイトで、実踏調査というのをやりました。タウン誌の編集で、実際にその土地を歩いて、そこにあるお店や街の様子を調べてくるというもの。
関西の、いろんな駅とかアウトドア施設とか、調査に行かせてもらいました。
ほかにも、公園についての記事を200本くらいリライトしたり、下手なりにも原稿を書いてめっちゃダメ出しされたり…。
それでも、人生で初めて、自分の名前が雑誌にクレジットされるという経験をしたんですよね。すごくすごく楽しかった。

そのアルバイトは契約期間が決まっていたので、その契約終了後に僕が入ったのが今は廃刊になってしまった「KANSAI 1週間」という都市情報誌の編集部でした。
それまでは一人のライターとして編集の一部しか知らなかったのが、今度は編集者として、絵コンテを書いて、カメラマン、ライター、デザイナー、イラストレーター、モデルさんなんかに仕事を振っていく、企画を立てるという仕事は、おもしろかったんですよ。

仕事が楽しすぎて、夜中じゅう頑張って働いたりしてましたけど、あるとき冷静になったんです。
先輩を見てみると年長者の編集者って45歳くらい。しかし雑誌の数は少なくて、活躍の場は少なくなる。ということは、45歳くらいでキャリアチェンジが発生するんだと思ったんです。
だから、それまでに誰よりも取材して、現場を知って、技術を覚えていこうって思ってました。

その後、インターネットの影響もあって雑誌はどんどん弱体化して、2008年のリーマンショックのあとにバタバタと廃刊が相次いで、僕が作っていた「KANSAI 1週間」も2010年に廃刊しています。
そして、その影響で職をなくしたカメラマンとか、編集関係者がたくさんいた。
そのときに「人口減少っていうのは、経済を小さくし、こんなにも産業を衰退させるんだ」と気づきました。世の中的には、まだそこまで人口減の危機感がなかったときでしたが、企業や自治体が統廃合したり、大学が募集枠を縮小したりという動きはありましたから。

そんな折、僕は二足のわらじを履いていて、24歳から26歳の間に編集者をしながらギャラリーオーナーをしてたんですよ。
僕の母方の親類は、精神病院を経営している家系です。その叔父が、大阪の大正区に分院を作るときに「病院に来る障害者さんとクリエイターをまぜこぜにできる場を作れ」と言ってきたんですよ。
しかも自腹で、と言われたんですけど、まあ面白そうだなと思ったから頑張って身銭を切って、信用金庫跡のすごく大きな空間をもらい、そこをギャラリーにしたんです。
それが、いまの屋号にもつながる「大正チュラキューブ」。沖縄の「ちゅら(美しい)」という言葉をもじった「美しい箱」という意味ですね。

そこでは2年間で50回以上イベントをやっていました。
学生さんの展示とか、外国人アーティストのインスタレーションとか、なんでもやってて。しかもそんな大きな箱をすごく安く貸して、クリエイターさんの集いの場みたいにしていました。
その後フリーランスになって、当時は、リーマンショック後の仕事が少なくなっていたクリエイターのポートフォリオを持って走り回って仕事を取ったりしてたんです。
だから、僕の活動はそもそもは障害者支援ではなくて、クリエイター支援から始まったんですよ。

(続く)

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著者プロフィール

ikekayo(池田佳世子)

ikekayo(池田佳世子)

関西を拠点に活動するライター。 その人のもつ無形の価値に輪郭を描く仕事をしています。