売れないバンドマンから経営者へ一度は諦めた起業の夢を叶えた秘訣はどんな時も学ぶ姿勢を忘れないこと

ポイント
  1. 母はスーパー営業マン!母から教わった根拠のない自信
  2. 経営者から、サラリーマンへ。26歳で就職して学んだこと
  3. ブライダルからITへ!起業して一番大変だった、お金とコンプライアンスの問題

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母はスーパー営業マン!母から教わった根拠のない自信

柴田)株式会社ルートゼロの柴田侑亮です。2016年の3月に創業しまして、現在約3期目の下半期に入ったところです。IT関連のお仕事をメインにやらせていただいていて、社内でエンジニアを育成し、開発現場のお客様のところに常駐して開発のお手伝いにいくようなことをメインでやっています。

伊藤)設立されて2年半くらいで、最初に考えていた事業と今やっている事業は変わっていますか?

柴田)現状は一緒です。三期目に入って色々枝葉を広げて違うことをやってみようかなという動きがあるにはあるんですけど、基本最初に思い描いた事業形態で丸2年やらさせていただいています。

伊藤)起業されたきっかけはなんだったんですか?

柴田)高校卒業後、大学に進学したのですが、当時、音楽をやっていて、本気でバンドをやっていきたいという理由から3ヶ月で大学もやめて、プロを目指しました。
生活していくためにみんなバイトをするんですけど、そうするとバイトが忙しくなって、何のために大学を辞めたのかわからなくなってしまう…バンドをやりたいから大学を辞めたのに、バイトをすることにすごく疑問を感じていました。その中で、それなら「自分で個人事業をやったほうがいいんじゃないか」と思ったことが僕が起業しようと思ったきっかけです。

伊藤)大学を3ヶ月でやめるという決断ってすごいですよね

柴田)そもそも大学には、やりたいことを探しに行くというふわっという感じで入ったんですよ。それで、すぐに音楽というやりたいことが見つかったので、親に頼んで土下座して大学はやめましたね。

伊藤)そこなんですよね!これなんだってものが決まった時に、根拠のない自信をもって進んでいけることが大事なんですよね!目的のために、意味のない時間は必要ないという決断を早い段階でできることが素晴らしいです。そこが起業家に一番必要なんです。

柴田)そこは母親の影響が大きいですね。母親は訪問販売の最盛期に完全にフルコミッションの営業で訪問販売をしていたんです。一度、108万円分の商品を売ってきたことがあって、その時の母の取り分が5〜6割だったと聞いて、たった1日で4〜50万稼いだんだっていうのが僕には衝撃的で…

さらに当時の給料は手渡しだったので、240〜50万くらい入った分厚い封筒を母がテーブルの上にボンと置いたんです。それを見た時に単純にすごいなと!普通に考えたら見られない光景じゃないですか?流石にそんな状態はずっとは続かなくて、クーリングオフの制度が改正されたことがきっかけで、結局母のいた会社は潰れてしまったんですけど…その後も母は訪問販売などで稼いでましたね。

伊藤)お母さんはスーパー営業ウーマンなんですね!柴田さんはその血を引いている。それって日常の会話の中とかでも、営業トークみたいなものを仕込まれたんですか?

柴田)僕は母と似ていたので、何の根拠もなく僕にも同じ事ができるはずだと思っていました。僕も昔から母に理屈っぽいところをずっと指摘されていて、単純にそれに腹が立つので、ずっと言い返していた青春時代でした、それで鍛えられたんですかね?よくわからないですが(笑)ただ、母親が誰かに話しているところを聞いているとやっぱりトークスキルはすごかったです!温度感とかスピード感とか本当に巧みなんです。そういうのは、側で聞いてましたね。

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経営者から、サラリーマンへ。26歳で就職して学んだこと

伊藤)大学を辞めてすぐに起業したんですか?

柴田)起業というか、フリーで営業の仕事をしたり中古自動車販売業をしたりいろんなことをしていましたね。会社の役員をやったり、法人向けの通信回線の営業をある会社と業務委託で提携する時に一個立ち上がった会社があってそこで副社長みたいなこともしていました。それと同時並行でバーの経営もしていました。当時は母がやっていたスナックも含めて2店舗運営していました。そこまでバンドは続けていたんですけど、知らないうちに比重が変わっていったんです。バンドは楽しかったんですけど、仕事が面白くなってしまったんですよね。それで、結果的にはバンドを解散しました。

そのタイミングで通信回線の会社が潰れたりとか、母が体調を崩したり、いろんなことが重なった時期でしたね。更に最終的にバーも運営が難しくなって、閉じることになった時に、普通に就職することを決めました。26歳のときです。

伊藤)最初に就職で入ったのはどういう会社だったんですか?

柴田)最初に就職したのはブライダルの会社での営業ですね。それが自分のなかでは一番強かったというか。年下の上司に罵倒される事もしばしばでしたが、本当の意味で社会経験できましたね。

伊藤)この会社にしようと思った決め手は何だったんですか?就職を決めたときに、いつまで働こうとか、ここを目指そうっていうのゴールって決めていたんですか? 

柴田)就職しようと決めたとき、もう自分で会社を経営することは諦めていたんですよ。当時は何をやってもうまく行かないし、結局僕がやっていた商売って友達とか知り合いにものを売っていただけだったので、見知らぬ顧客を得た結果ではなかったんです。それって仕事なのかなという疑問もあって、勢いでその日暮らししているだけということに気づいてしまったんです。他の業種も経験したからこそ、限界を感じたというのがあって、これはやっぱり向いてないなと思って就職しました。就職決まったときのスタートの給料が18万だったんですが最初は「うわっ…」て思いましたね。その時に「俺はもう経営者じゃないんだ…」と実感しました。それでも家族のために自分をころしてサラリーマンとして成り上がるしかないと思っていました。ただ、30歳までに他のことをするか、ここで頑張り続けるのかを決めようと思っていました。まずはこの会社でとにかくがむしゃらにやっていくしかないと思っていました。

伊藤)何でブライダル業界だったんですか?

柴田)単純にカッコいいと思ったんですよ。完全に見た目の話ですけどね(笑)男がビシッとスーツを着て、プランニングしているのっておしゃれだなと思ったんです。もう一つ、その会社のHPを見たときに従業員がめちゃくちゃ仲よさそうだったんですよ。そういうファミリー感に惹かれましたね。

伊藤)もともと営業されていたり、お母さんの姿を見ていたということで、ブライダルでの営業も割とやりやすかったですか?

柴田)最初は調子が良かったんですよ。一気に連続して契約を取る事ができたんですけど、徐々に契約が取れなくなっていって、調子のいい状態を保てなかったんです。やっぱりお客さんってマインドとかモチベーションとか、そういうのを敏感に察知するんですよね。僕は最初、全て感覚でやりすぎていたんですよ。でも、連続して契約が取れなくなった時に、合いやオーラがなくなってしまったんです。さらに相手のことを考えるとかっていう余裕もなくなってしまって…そっからは、まぁ負のループですよね。

そこで学んだのが、原因を解明して改善していくっていうことを、何となく感覚的にはわかっていていても、理論的に理解していなかったということです。上司からは、「なんでそうなったのか考えろ!」と言われていました。ミスの原因を追求しつくしたあとに、それを改善していく方法や、営業の戦略・戦術は教わりましたね。

伊藤)それまでは感覚的なところで仕事をして結果をだしていたのが、営業のメカニズムというかもっと科学的にそこで考えて落とし込んだことによって、さらに進化したってことですね!

柴田)それからの4年半の間たくさんのことを学びました。僕が入社した時に売上が数億円くらいの会社だったのが、辞めるときには数十億円にまで成長したんですけど、そこに至るまでの会社の体制の変化とか人事、給与、支社の地方展開など様々なことを見させてもらいました。サービスクオリティーの管理や管理職の配置、採用・マネジメントなどに関わらせていただく中で、その全てにロジックがあるなというのは実感しました。それを約4年半の間で学びましたね。

伊藤)4年半ですごくいい経験されていて、この会社の影響って大きいと思うんですが。入る前と入ってからで何が一番変わりました?

柴田)人に対する愛情ですかね。それまではめちゃくちゃ自己中でした。誰かの成長を喜ぶこともなかったし、自分一人でできることがこんなに限られているとも思わなかったし、全部自分一人でできると思っていたんです。でも結局何もできないことには気づきましたね。

伊藤)そんな会社を辞めようと思ったきっかけは何だったんですか?

柴田)「ブライダル業界をイノベーションする」「全社員の成長と幸せを追求する」「日本にもっと結婚式を」「お金がないという理由で結婚式を諦めるカップルを0にしよう」という素晴らしい会社の理念を面接の時に初めて聞いて、本当に感動したんです。僕自身、結婚式が大好きだったので、この理念が実現できたら、そんな幸せなことってないなと思い、それを夢見て働いていたんです。

でも、働いていく中で僕の理想と現実のひらきが出てきてしまったんです。そうなってしまうと、「今の会社で出世してのし上がってやる!」という気持ちが薄れてしまうんですよね。それが退職を決めた一番の理由ですね。それがちょうど30歳くらいの時なんですが、そのタイミングで体を壊したりもして、「ああこれは辞めるタイミングかな」と思いました。それと同時に、今の自分ならもう一度会社を起こすことができるのではないかとも思ったんです。

ブライダルからITへ!起業して一番大変だった、お金とコンプライアンスの問題

伊藤)なんで会社を辞めた後にITの会社に就職したんですか?

柴田)僕は単純にパソコンが好きでちょっとしたトラブルくらいだったら対処できていたんです。タイピングも人より早かったし、エクセルも結構使えていたし、もともとITリテラシー自体はあった方なのかなと自分の中では思っていたんです。そんな時、大規模なシステムの導入を検討する事になり、そのプロジェクトミーティングで話していて、今まで時間をかけていた業務がここまで簡単に効率を上げてできるということを初めて知って感動したんです。しかも、その開発費用が数百万、下手すると一千万を超えるかもしれないと言われた時は「マジか…納期半年でこんな大金が動くのか…」ということに驚いたんです。

そして、色々な業界を検討していく中で、IT業界というのは一生衰退しない産業だなって思ったのと、世界に通用する可能性もあると思ったのがこの業界を選んだきっかけですね。転職を決めた時にこれからは、一生続けられる産業で仕事をしよう!と決めていたので、IT業界で独立しようと思い、独立に向けてITの業界で自分の思いを前向きに受け入れてくれる会社を探し、入社しました。

その後、ある程度の結果はすぐついてきました。むしろ、ものすごくワークライフバランスの整った会社で、こんな勤務時間でこんな結果がでるのか?とびっくりしたほどです。そんな中、余裕もできるので色々なことが目につくようになり、大きい会社だったという事もあったと思いますが、マクロで見た時に現場に出ているエンジニアを大切にできていないと感じたんです。本当の意味でも彼らの成長の環境や、充実感や、時に技術面以外のマインドの成長環境などに疑問を感じていました。

そこからはどうしてもその疑問が晴れないまま、3年後には起業させてもらえる流れにはなっていたんですが、どうしても自分の思いとかけ離れた仕事をし続ける事ができず、これはもう自分で起ち上げるしかない!そう思うようになったんです。

その時くらいですかね、イトケン塾(※1)に参加し始めたり、いろんな方に相談し始めて、たくさん背中を押してもらいました。出資の話もたくさん頂きました。

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結果、最後は父親の末期癌の告知と同時に、父親も病気と戦うんだから、一緒も一緒に戦いたい。くすぶっている自分を父親の記憶の最後にしたくない。そんな思いが爆発して起業を完全に決意しました。そこからは早かったです。年明けから登記準備をし、3月1日設立する運びとなりました。

伊藤)起業してから今までで、一番大変だったことはなんですか?

柴田)2つあるんですけど、1つは創業してすぐのキャッシュフローですね。売り上げがあっても、入金は後なので現金が入らないという状態になってしまったんです。そんな状況でも社員の給料は払わなければいけない…そうなると、売上はあるのにお金がない、という状況になってしまったんです。手元には創業する時にかき集めたお金と、投資してもらった小額なお金しかなかったので、現金が尽きたんです。

しかも、そこから自分の収入も取らなきゃいけないじゃないですか。僕も家族を養わないといけないので…2〜3ヶ月先にはお金が入ってくることはわかっていましたが、「もしこれが本当にお金が入らなかったら…」「この先契約が取れなかったら…」と考えると相当恐ろしいなとも感じましたね。

もう一つは、法務の問題です。これは相当苦労しました。一度、フリーランスの人に仕事を頼んだ時に、誰もが知っている外資系企業の情報を勝手に抜き取って流出させるという事件が起きたんですよ。僕が送り込んでいる人が事件を起こしたんです…流出した情報自体は、たいしたものではなかったんですけど、「そんな人を雇っている会社ってなんなんだ!」と言われ、損害賠償を求めるという話にまでなりました…その時は本当に会社が潰れると感じましたね。

とにかくやれることはやろうと思い、すぐに大阪からそのフリーランスの人の神奈川県の家まで行って、事の重大さを伝えました。「あなたはとんでもないことをしてしまったんですよ!」と理論的に話して書を取りました。最終的にPCにある全ての情報をもって、迷惑かけた会社に謝罪しにいったんですよ。「本当にすみません、2度と犯人と付き合う気はないし、全ての情報を確認しました!もう外に情報が漏れることはありません!」と誠心誠意に伝えて、それでなんとかことなきを得ました。

伊藤)最悪の事態ってあるんですよね…それにうまく対処できなかったら会社がなくなるっていう世界なので怖いですよね…

柴田)そうですね…信用を回復するのは本当に大変でした。でも真面目にコツコツやっていくしかないんですよね。誠実に積み重ねていくしかないんです。そこはとても勉強になりましたね。

さらなる成長を目指して!社長だからこそ大切な学ぶ姿勢とは?

伊藤)最後にこれから起業する人や今まさに起業で悩みを抱えている人にメッセージをいただけますか?

柴田)僕が気をつけているのは、学ぶ姿勢を持ち続けるということです。社長になったら誰も教えてくれなくなるので、自分にない能力をどうやって足すかというのは、常に考えて行動しています。伊藤さんが開催しているチャレンジャーズ(※2)に参加したこともその一環です。そこでもたくさんのことを学ばせてもらっています。そして、その学んだことをスピード感をもって行動に移していくことが大切だと思っています。

※2伊藤健太が主催する創業1年目〜5年目の商売人が集うコミュニティー。

伊藤)柴田さんは本当に素直だし、行動と決断が早いですよね!みんな、そこができないんですよ!すごい頭いいし、会うたびに前に進んでいて会社も大きくなっていて、今回のお話もこれから起業する人にもいい刺激になると思います!

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著者プロフィール

伊藤 健太

伊藤 健太

1986年生まれ、横浜出身、慶應義塾大学法学部卒業。

23歳の時、病気をきっかけに、小学校親友4名、資本金5万円で株式会社ウェイビーを創業。

10年間で10,000人を超える経営者、起業家の「組織づくり」「売上アップ」に携わる。

社長がいなくても回る強い組織、仕組みをつくる「01組織クラウド

小さな会社、個人事業主のビジネス成長を実現する「01クラウド

の01シリーズを展開中。

2016年10月より、世界経済フォーラム(ダボス会議)の日本代表選抜
2018年9月より、徳島大学客員教授就任
2020年4月より、iU 情報経営イノベーション専門職大学客員教授就任

「行動の品質」「自分の力で稼ぐ力を身につける本」など著書7冊。
日経新聞、エコノミスト、NHKなどメディア掲載も多数。

柴田 侑亮

柴田 侑亮

1984年9月21生まれ 大阪府高槻市出身 高校卒業後、音楽成功を夢に全国でLIVE活動を行う毎日。 音楽活動をより自由にできるようにと20歳で個人事業にて独立。 その後、店内でLIVEなどを行えるBARを経営しながら中古自動車販売業を立ち上げ、23歳から小規模ながらも営業代行会社の役員として立ち上げに関わるが、すべてが鳴かず飛ばずになりここで挫折、音楽業界の引退と同時に全てをリセット。 結婚を経て社会人としての経験を積む為に全てを捨てブライダル関連事業を営む某ベンチャー企業に26歳で初めて就職。 約5年間、サービス業としての品格、ベンチャー企業としての体質や、組織拡大の瞬間を間近で感じながら、ビジネスの本質を学び、次第に起業への思いが日を増す毎に強くなる。 30歳を期に生涯続けていけるビジネスを追いかけIT業界へ転職。 その後、父親の癌をキッカケに株式会社ルートゼロを創業。 現在はシステム開発事業とインバウンド事業を主軸に、ITで世の中をより便利にできるサービスやビジネスを追い求めて奔走中。 刹那を大切に、今この瞬間を最大限に楽しむというスタイルから、インターネットラジオfmGIG『情熱大陸への道』パーソナリティも担当。 その他、飲食関連事業や総合人材サービス事業を行う会社の社外役員を兼任。