『九州パンケーキ』の生みの親・村岡浩司に学ぶ起業とまちづくり
- 最初の起業、そして失敗
- 新たなビジネス!タリーズFC店出店までの道
- 宮崎で会社経営をしながらシンガポールへ~38歳で迎えた変化
- ひとりで商品開発~九州パンケーキミックスができるまで
実家はすし屋を営んでいた。
高校に上がるくらいから実家のすし屋で一生過ごすのか、それでいいのかという疑問を抱くようになった。独立心の強い子供だったこともあり、『実家から一番遠いところに行けば自分のことを見つけられないのでは…』と考え、単身アメリカへ渡った。
根本にあったのは閉塞感のある田舎のまちから逃れたいという思いだった。当時はスマートフォンもネットもない時代。コンタクトが取れるのは手紙のみ。多少の寂しさはあったが、まったく新しい人生を見つけることはエキサイティングだった。
19歳の時、マイノリティーで英語が話せなくても頑張ればなんとかなるという短絡的な思いから大学をドロップアウトしアルゼンチンから来た仲間とビンテージのデニムなどを取り扱う輸入商社を始めた。起業の真似事のように始めた会社は思いの他ヒットした。その後、帰国して宮崎市内でも複数店舗にまで事業を拡大したが、トレンドの変化や不況のあおりを受け、1998年、28歳の時に会社をたたむことになる。
渡米してから既に10年の月日が経っていた。事業に失敗して途方にくれた挙句、高校時代には継ぎたく無いと思っていたすし屋に戻り、弟子入りを志願することになった。借金の肩代わりをしてくれて私の窮地を救ってくれた父には心から感謝している。頭を丸めて助けを乞うと、父は何も言わずに受け入れてくれた。事業の失敗で出来た借金は父が肩代わりをしてくれた。
当時はとにかく目の前の板前仕事に集中した。冷たい世間の目から逃れたくて、引きこもりたかったのかもしれない。小さな町ではすぐに噂は広がる。事業に失敗し、父に借金の肩代わりをさせたバカ息子として見られるのは耐え難かった。よく言うと修行に没頭していたが、内面は引きこもりとなんら変わりなかった。
32歳まで3年ほどすし屋で修行を続けていたが、2000年代に入ると、郊外に回転寿司や居酒屋、ファミレスなど、今まではあまりなかった和食を扱うチェーン店が増加していった。それは、寿司屋を営む身としては楽観視できない変化であった。寿司屋だけではなく、もう一つの収益の柱の必要性を感じるようになる。
10代~20代にかけてアメリカでバイヤーをやっていた時代のことを思い出した。当時、『スターバックス』に代表されるような、スペシャルティーコーヒーショップ(高品質なエスプレッソをアレンジしたドリンクメニューを提供するカフェ)が一気に全米で店舗拡大していた。1997年、銀座に日本1号店を出店したタリーズも直ぐに関東を中心に数十店舗の拡大をみせていた。
「このビジネスは必ず大きなムーブメントを起こす!」と思い、いてもたってもいられず、上京。スターバックスはもとより、様々なカフェチェーンを訪れてエスプレッソを飲み比べ、業態のリサーチを続けた。
そんな中で、僕が注目したのはタリーズコーヒー。スターバックスに比べて後発のタリーズは、ビジネスパーソンが入りやすい立地や、店内での喫煙を可能にするなど、男性客の集客にも力を入れ、特徴を際立たせて対抗していた。
そしてタリーズのリサーチを続けるうちに、コーヒー豆に対するこだわりや、その味に魅せられ、すっかりタリーズが好きになってしまい、すぐに本部に電話をし、長文メールを何度も送り地方出店の思いを伝えた。
当時タリーズ本部は、地方での出店における1号店が宮崎になるということには乗り気ではなかったが、なんとか説得し日本で初となるFC一号店出店へとこぎつけることができた。タリーズの出店を考えていると話したとき、癌の闘病中だった父は次の時代を託すと協力をしてくれた。
そして、月曜から金曜までをタリーズで働き、土日にすし屋の厨房に立つという生活が38歳まで続いた。
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2002年タリーズ1号店を宮崎中心市街地に出店した際、出店先に選んだのは西村楽器店というビルだった。僕が中高生の頃には、若者のたまり場で、レコードや楽器を買う客で賑わっていた。文化情報発信の拠点であった西村楽器店だが、時代の流れのなかで事業を縮小し、その場所は貸しに出されることになっていた。
貸しビルの一階にはコンビニを入れるという話が持ち上がった。当時はまだ、コンビニがまちの小さな商店を駆逐しているといった風評(イメージ)があった時代。まちのシンボリックな場所がコンビニになることへの違和感がぬぐえず、西村楽器店の池田社長に直談判をした。3、4か月通いつめ、何度も怒られながらもお願いを続けた。
しばらくすると、熱意が伝わったのか話を聞いてくれるようになり、ビルの一階を貸してもらえることになった。しかし、それには一つ条件があった。それは商店街組合の理事になること。こうして最年少の理事を引き受けたことからまちづくりにはまっていくことになる。
池田社長は若い感性を育てたいという想いで、期待をかけてくれた。世代の違いから、まちづくりの手法は違っていたが、中心市街地活性化に対する熱い想いを教えていただいた。理事になってからは反対を押し切り意思を通した場面もたくさんあった。反対意見も多く、様々なことを言われていた。そんな時、社長は「やりたいようにやりたいことを貫かないとダメだ」とよく言ってくれた。
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当時30代半ばという若さで商店街理事に就任し、まちでも目立つ店を経営し、新聞やニュースで特集され、まちづくりのイベントの中核的存在であった自分はヒーローのように祭り上げられた。しかし、世間の注目が集まるたびに、自分の中で葛藤は大きくなっていった
自分は事業家であり商売人。地域の盛り上がりは自分の商売が成功することと同義でなくてはならない。という考えがあった。その頃父が他界し、店も大変な時に社長である自分が店を抜け、地域の祭りやイベントの準備など駆り出されていく。本業であるはずの商売がおろそかになっていっているという事実が重くのしかかった。これでいいのかと葛藤する日々は続いた。
地方初の起業で成功・スケールする方法
2008年まで、すし屋とタリーズコーヒーの運営、そしてまちづくりとトリプルプレーヤーとして活動していたが、38歳のときにそれは限界をむかえる。そのころ、シンガポールでタリーズコーヒー本社(シアトル)のアジアパシフィック本部立ち上げの話が持ち上がった。タリーズコーヒーの創業者であるトム・タリー・オキーフ氏から直々に手伝って欲しいという打診があり、プレーイングマネージャーを卒業。会社経営をしながら1年間本拠地である宮崎を離れシンガポールへ行くという決断をする。
日本人は海外に行くことをいまだに特別にとらえている節があるが、実際はそんなことはない。例えば、小さな国であるシンガポールには国内線の概念がない。つまり、空港に行く際、必ずパスポートが必要になる。こうした、空港に行くことイコール海外に行くことという国はたくさん存在する。彼らは日本人が国内に行くことと同じ感覚で海外へ行くのである。外国へ行くことは何も特別なことではないのだ。国境の意識は頭の中だけにあるもので、ビジネスにおいて国境は存在しない。あるのは、商取引上のルールだけ。そのことに改めて気づかされた。
『宮崎と熊本、福岡、東京など、国内での移動や商売には違和感はないのに、なぜ台湾や香港、それにシンガポールなどの海外の展示会に行くことは特別に感じてしまうのだろうか。移動時間で考えたら宮崎と東京、台湾は同じくらいの距離。新幹線も通っていない宮崎から見れば、外の世界は国内であろうが海外であろうが、須らくグローバルだろう。』
10代の頃に感じていた感覚を38歳にして取り戻すことができたことは大きな収穫であった。それは、経営者としてのマインドセットの転換でもあった。28歳で経験した「廃業」という変化は、避けれれない苦しみを伴う強制的な変化だった。しかし、38歳で迎えた変化は主体的・能動的に動いた結果の変化だった。
2008年にシンガポールから戻り、その年の9月に中心市街地にCONERというお店をオープンさせる。繁華街の人の集まる場所にある空きビルを見たときに直感でカフェの経営を決意。借金をしてリノベーション。ガラス張りのおしゃれな外装のレストランを作り上げた。しかし同年、リーマンショックが起きる。当初、宮崎は関係ないと思っていたが、目に見えて人が外を歩かなくなった。店の売り上げも初年度から2年連続で2000万を超える赤字だしてしまった。
そして、2010年2月宮崎口蹄疫が発生。それはとてつもない経済的な停滞を宮崎にもたらすものだった。
「絶対に宮崎県境から口蹄疫を外に出してはいけない。」
そうした使命感のもとで、道路県境では徹底した消毒作業が行われた。県境を越え、口蹄疫が全国に広がると日本の畜産産業が終わってしまう。宮崎だけでなんとかとどめること。それが何よりも優先された。
4月、当時宮崎県知事だった東国原氏による「非常事態宣言」が発令。市街地からはたちまち人の気配が消え、観光客でにぎわっていたゴルフ場の予約もほとんどなくなったと聞く。また、県外客の激減によってホテル稼働率も急激に下がって行った。口蹄疫の発生から半年が経ち、非常事態宣言はようやく8月には解除された。年末になり少しずつだが人が戻り始め、自粛ムードを乗り越えてみんなで頑張ろうという雰囲気が作られていった。
しかし、翌年の2011年1月末 新燃岳が噴火。農産物などが大きな打撃を受けた。さらに、同年2月末、鳥インフルエンザが確認される。
そして、3月11日、東日本大震災勃発。日本が一つとなり、東北への復興支援が始まる。しかし一方で、口蹄疫で毀損した経済からの復興を進めなくてはならない宮崎は、世間の関心から取り残されて行った感覚もあった。「もしも、後一回でもこのような厄災があれば僕らの会社は生きていけないだろう」という実感を強く持つようになり、父から引き継いだ会社をもつぶしてしまう恐怖や危機感を切実に感じた。
そして、宮崎だけで商売を展開していくのは限界があると感じ、新たなビジネスを展開しようと、商品開発に取り掛かかることになった。
友人が、のちに日本でも大人気となるハワイのカフェ、『エッグスンシングス』のオーナーをしていたこともあり、パンケーキがいずれ日本でブレイクすることは確信していた。しかし店を出す資金はなかった。
パンケーキカフェは一大ブームとなり、パンケーキを提供する店は急増した。専門店だけではなく、カフェやファミレスまでがこぞってパンケーキの販売をはじめた。大きなブームになっていく一方で、僕はスーパーマーケットでの市販ミックスに注目した。様々な店を回ってみたが、ホットケーキミックスはあっても、『パンケーキミックス』を販売している店は一軒もなかった。このマーケットに最初にパンケーキミックスを投入すれば『勝てる』という確信をもった。
当時の弊社は、口蹄疫からの経済的なダメージから立ち直っておらず、キャッシュフローも枯渇していて苦しい状態。とても開発費の捻出はできないと思い、会社に黙って一人で商品の開発を続けた。もちろん経費は全て自分持ち。社業に迷惑はかけずに開発を進めていきたいという思いで励んだが、試行錯誤の連続だった。
起案から商品の発売までにかかった時間は、実に1年半に及んだ。さまざまな想いが重なり、「九州だからこそ作れるパンケーキを正直な素材で作りたい」というコンセプトのもと生まれたのが、『九州パンケーキミックス』である。発売以降は、その理念に共感してくださったお客様による口コミで広がって行った『九州パンケーキミックス』は、やがて全国規模での展開へと広がっていった。
〜九州バカ世界とつながる地元創生起業論〜
2018年4月26日 全国の書店にて発売
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